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執筆記事

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​《千葉県原爆被爆者友愛会ニュース 2022年10月》

一筆啓上

 

友愛会賛助会員/俳優・語り手 岡崎 弥保  

 

 井上ひさし「*¹父と暮せば」を毎年原爆忌に上演するようになってから、はや九年が経つ。振り返ってみると、私はこの作品と向き合うようになるまでは、原爆のことをまるで知らなかったと、つくづく思う。

福吉美津江という被爆者の娘を演じるにあたって、悪戦苦闘などという言葉では到底表しきれない私の俳優修業は始まった。

 “生き残ったヒバクシャになる”

 それがどんなに過酷で辛くて耐え難いものか―想像もつかないことだけれど、改めて歴史を知り、被爆地を訪ね、資料を読み、絵や写真を見、被爆者から直接話を聞いて、想像する。ヒバクシャの思いを。美津江の心の奥にあるものを。

 そんな日々の中で友愛会の方々と知り合う機会に恵まれた。

 被爆者たちが団体を作り、全国各地で活動をしてきたことをそのとき初めて知った。遅ればせながら、私にもできることがあるならばと賛助会員になり、二〇一五年から千葉県原爆死没者慰霊式典の司会を担当させていただいている。

 当時の慰霊式典は野外で、実際の慰霊碑の前で行われていた。

 私はその慰霊碑の左下に書かれている言葉に深く心打たれた。二年目も引き続き司会をさせていただけることになり、私は思い切って、慰霊碑左下の文章を式典内で読み上げたいと申し出た。友愛会の方々は快く承諾してくださり、以来、新合祀者名を披露する際に慰霊碑に刻まれた次の文章を読み上げることが恒例となった。

 

一九四五年八月六日九日、広島と長崎の空に天を裂く閃光がはしった。

数十万人の生命は地上から消えた。

生き残った被爆者は放射能の病苦と貧困と差別と政治の無視に耐え、ひたすらに戦後の日本を生きた。

その日の記憶をいずみのように鮮烈に抱き、再び核戦争のおきぬことを願い、その苦難がやがて大地に芽吹く一粒の麦たらんことを信じて。

 

 大江健三郎氏は『ヒロシマ・ノート』の中でこう言う。「僕は、そうした自分が所持しているはずの自分自身の感覚とモラルと思想とを、すべて単一に広島のヤスリにかけ、広島のレンズをとおして再検討することを望んだのであった。」

 私も、かくありたいと願う。

 今年から「*²ひろしまのピカ」の朗読を一〇〇回めざす、と改めて決意した。その第一歩を友愛会語り部研究会で踏み出せたことを本当にうれしく思っている。

 人類はいまだ核の脅威の真っ只中にあるが、ヒバクシャの魂を心に刻みながら、私は語り続けていきたい。

 

*¹「父と暮せば」・・・原爆をテーマにした父と娘の二人芝居。

*²「ひろしまのピカ」・・・「原爆の図」を描いた画家丸木俊が子どもたちに原爆を伝えるために作った絵本。

​《中国新聞セレクト「想」2019年7月》

中国新聞セレクト-1面--2019年7月3日(水).png

​《「丸木美術館ニュース」2015年1月》

​《藍生俳句会「藍生」2015年7月号》

言の葉語り

                                                  岡崎 弥保

  やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりけり  (古今和歌集・仮名序)

 

 日本古典文学を専攻していた大学時代、国語教材の編集者、そして俳優・語り手である現在にいたるまで、私は「言の葉」に魅せられ続けている。殊にみずからの身体を通して言の葉を紡いでゆく喜びを知った衝撃は、今なお私をとらえて離さない。いつしか私は語りや朗読に力を入れるようになっていた。

 もとより私の俳優修行は、日本文化を重んじる劇団の研究生になることから始まった。小説をそのまま舞台化する「詠み芝居」を上演するその劇団では、語り・朗読は必須事項であり、私はそこで朗読の稽古を積み重ねた。

 

 自分の朗読の力を試してみようと応募した「朗読コンクール」(NPO日本朗読文化協会主催)で優勝したことから、ありがたいことに朗読の仕事をいただけるようになった。初めての仕事は、宇野千代『幸福を知る才能』の朗読CDの収録。書名の言の葉のとおりに幸福な内容で、いつまでもこうして収録していたいと願ったことが忘れられない。その願いが通じたのか、その後『にほんむかしばなし』、与謝野晶子訳『源氏物語』、丸木俊『ひろしまのピカ』等、すばらしい作品に関わらせていただくことになった。

 

 また、これを機に自分で始めたことが二つあった。朗読教室と朗読舞台である。

 

 「言の葉朗読教室」は、近くの公共施設を借り、その掲示板やホームページで受講者を募った。伝手はない。一人でも来てくれるのなら必ずやるという思いで始めた教室も、もう六年目になる。小さいながらも途切れることなく続いている。生徒さんたちは、それぞれ自分の心の種をもって言の葉を紡ごうと、熱心に教室に通ってきてくれる。私も一緒に言の葉を紡ぐ。種から芽が出るように、水をやったり、光をあてたり、ときには土を掘り起こす。生き生きとした言の葉がそれぞれ自分の幹に枝に豊かに繁りますように。そう祈りながら、私自身の言の葉もはぐくんでゆく。

 

 そして、自分で企画、制作し、出演する朗読舞台「言の葉玉手箱」を手がけ始める。コンセプトはその季節の言の葉をタイムリーにお客さまに届けること。言の葉は生きている。春には春の、秋には秋の、鮮度の高いみずみずしい言の葉を生の舞台で伝えたい。自然とそう考えるようになっていた。

 「其の壱」から「其の伍」まで、およそ年一回のペースで、季節に合った言の葉を語り続けた。そしてついに昨年の「言の葉玉手箱 其の伍」で、井上ひさし『父と暮せば』を、ヒロシマ忌である八月六日に上演することができたのである。

 

 原爆投下三年後の広島を描いた井上ひさし渾身の言の葉を、八月六日その日に届けた反響は予想以上に大きかった。語り続けてほしいとの声を多くいただき、出演者で新たに『父と暮せば』を上演していくための会を立ち上げることになった。その第一回目の公演は、この四月、原爆の図・丸木美術館にて行われた。ときは晩春であったが、作品の内容にふさわしい場所で多くの方々に聞いていただくことができた。丸木夫妻の魂がしっかりと作品を支えてくれていた。

 

 今年の八月には六日と九日、ヒロシマとナガサキの原爆忌に『父と暮せば』を上演する。原爆から七十年という節目の年、時節に合った生きた言の葉をこれからも語り続けてゆくつもりである。

​《月刊書評誌「子どもの本棚」2015年8月号》

 

語り継がれる〈被曝の物語〉

                                       俳優・語り手 岡崎 弥保 

 初めて『ひろしまのピカ』に出会ったのは、原爆の図・丸木美術館の小さな一室だった。原爆の図の衝撃に呆然としながら休憩室の扉を開けると、読みふるされた赤い表紙の絵本が並んでいる。窓には都幾川の流れる風景、私はひと息入れるつもりでその絵本のページをめくった。原爆の惨状はそこにも描かれていたが、突きつけられるように迫りくる原爆の図とは異なり、両の手のひらに包まれて差し出されているようなぬくもりがあった。その体温で絵が、言葉が、自分の身体にすっと入ってくる。「ピカは、ひとがおとさにゃ、おちてこん」。この鮮烈な最後の一文すらも。

 巻末の「この絵本にそえて」に書かれた丸木俊氏の体験や思いを交えた絵本の作成経緯は、さらに私の心をとらえて離さなかった。いつかこのあとがきを含め、必ず『ひろしまのピカ』を朗読しようと私は心に決めていた。

 そもそも丸木美術館を訪ねたのは、『父と暮せば』の舞台のためだった。原爆投下三年後の広島、とある父と娘の会話を通じ、原爆による人間の深い心の傷が描き出される井上ひさし氏の戯曲。八月六日にあわせての初演は予想以上に大きな反響をいただき、戦後七〇年・被爆七〇年の今年は、さらに再演を重ねていくことになった。(二〇一五年四月、丸木美術館にて初の『父と暮せば』を上演。八月六日・九日は都内のライブハウスにて公演予定。)

 その後『ひろしまのピカ』は、さまざまな方のお力添えを得て、朗読CDの形となった。丸木美術館開館記念日には実際に『ひろしまのピカ』を朗読する機会もいただいた。

 こうして、私はヒロシマの作品を語っている。父が広島出身だからということもその一因ではあるが、このような〈被曝の物語〉に向き合うようになった契機には、福島原発事故がある。

 私が被災地を実際に訪れたのは震災から二年半もたった二〇一三年九月。気仙沼市街地に津波で打ち上げられた漁船共徳丸が解体されると聞き、もう猶予はないとそれまでの躊躇を捨て、やっと現地に向かったのである。すでに共徳丸は解体され始めていたが、陸に突然巨大な船があることの異様さはいいようのないもので、市民の七割が撤去を求めた気持ちはわからなくもなかった。震災当時は瓦礫で埋め尽くされていたであろうその一帯は、一応の整備がすすみ、何もない更地が続いていた。私は行く先々で当時の惨状を想像するよりほかなかった。なぜもっと早く来なかったのだろう、しっかりと見ておくべきだったのに。後悔の念が生じていた。

 しかし、福島に入ってその状況は一変する。ここでは時間が止まっていた。地震や津波の被害はないのに、人の暮らしが突然断ち切られている。方々で草が生い茂る。ある野球部の部室には靴が片方脱ぎ捨てられ、ホワイトボートには次の試合日程が書かれていた。でも、生活のにおいはどこにもない。この風景の不気味さはこれまでの被災地とまるで異なるものだった。さらに海岸部へ行き、私は目を疑った。倒壊した家、散乱した瓦礫、横転した車、皮肉なことに、原発事故のために、私は二年半も被災地に足を踏み入れなかったにもかかわらず、震災当時の惨状をこの目で見た。この奇妙で恐ろしい体験は私の心に深く刻みこまれたと同時に、原発のこと、原爆のこと、放射能のこと、被爆者のこと――これらが一本の線となって私の目の前に現れてきた。そして、私は〈被曝の物語〉を語るようになっていった。

 「地獄の現場へ降りて行き、人間の真実を探す」という井上ひさし氏の言葉を道しるべに、覚悟してのぞんだ新たな歩みのつもりだったが、〈被曝の物語〉を語ることは想像を超えて、つらく苦しい。それは、あまたの被爆者の壮絶な記憶をつぶさに辿っていかなければならないからだ。

 いくつかの公演を終え、また広島を訪ねる。原爆ドームを見上げながら、果たして共徳丸は取り壊されてよかったのだろうかという思いがふと頭をよぎった。負の遺産を残すことの重さをあらためて感じ始めていた。〈被曝の物語〉をあえて声に出して語ろうとしている自分の行為は、負の遺産を残そうとする行為に通じているようにも思えたのだ。

 『ひろしまのピカ』は多くの子どもたちに読み継がれているが、原爆の悲惨さを描いた強烈なインパクトのある絵本でもある。それゆえ、絵本の読み聞かせが敬遠されることもあるだろう。そんなとき、この朗読CDを活用してもらえたらと思う。お子さんと一緒に絵本をひらいて、その子のまなざしを見守る。もし、こわがるようなことがあったら、そのときはそっと寄り添って手を握ってあげてもいい。

 

 〈被曝の物語〉は、負の遺産に向き合う勇気をぬくもりにかえて、私たちの心に宿ってくれる。そしてそれは時を経ても色褪せない。語るたびに生き生きとたちあがってくる〈被曝の物語〉にいつしか私は希望を見出している。これが物語のもつ力なのだとあらためて思う。

 七〇年の節目のときも、その先も、向かう道は決して平坦ではないけれど一歩ずつ、魂の灯る〈被曝の物語〉を語り継いでゆきたい。

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