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ひろしまのピカとの出会い

 

語り継がれる〈被曝の物語〉

                                       俳優・語り手 岡崎 弥保 

 初めて『ひろしまのピカ』に出会ったのは、原爆の図・丸木美術館の小さな一室だった。原爆の図の衝撃に呆然としながら休憩室の扉を開けると、読みふるされた赤い表紙の絵本が並んでいる。窓には都幾川の流れる風景、私はひと息入れるつもりでその絵本のページをめくった。原爆の惨状はそこにも描かれていたが、突きつけられるように迫りくる原爆の図とは異なり、両の手のひらに包まれて差し出されているようなぬくもりがあった。その体温で絵が、言葉が、自分の身体にすっと入ってくる。「ピカは、ひとがおとさにゃ、おちてこん」。この鮮烈な最後の一文すらも。

 巻末の「この絵本にそえて」に書かれた丸木俊氏の体験や思いを交えた絵本の作成経緯は、さらに私の心をとらえて離さなかった。いつかこのあとがきを含め、必ず『ひろしまのピカ』を朗読しようと私は心に決めていた。

 そもそも丸木美術館を訪ねたのは、『父と暮せば』の舞台のためだった。原爆投下三年後の広島、とある父と娘の会話を通じ、原爆による人間の深い心の傷が描き出される井上ひさし氏の戯曲。八月六日にあわせての初演は予想以上に大きな反響をいただき、戦後七〇年・被爆七〇年の今年は、さらに再演を重ねていくことになった。(二〇一五年四月、丸木美術館にて初の『父と暮せば』を上演。八月六日・九日は都内のライブハウスにて公演予定。)

 その後『ひろしまのピカ』は、さまざまな方のお力添えを得て、朗読CDの形となった。丸木美術館開館記念日には実際に『ひろしまのピカ』を朗読する機会もいただいた。

 こうして、私はヒロシマの作品を語っている。父が広島出身だからということもその一因ではあるが、このような〈被曝の物語〉に向き合うようになった契機には、福島原発事故がある。

 私が被災地を実際に訪れたのは震災から二年半もたった二〇一三年九月。気仙沼市街地に津波で打ち上げられた漁船共徳丸が解体されると聞き、もう猶予はないとそれまでの躊躇を捨て、やっと現地に向かったのである。すでに共徳丸は解体され始めていたが、陸に突然巨大な船があることの異様さはいいようのないもので、市民の七割が撤去を求めた気持ちはわからなくもなかった。震災当時は瓦礫で埋め尽くされていたであろうその一帯は、一応の整備がすすみ、何もない更地が続いていた。私は行く先々で当時の惨状を想像するよりほかなかった。なぜもっと早く来なかったのだろう、しっかりと見ておくべきだったのに。後悔の念が生じていた。

 しかし、福島に入ってその状況は一変する。ここでは時間が止まっていた。地震や津波の被害はないのに、人の暮らしが突然断ち切られている。方々で草が生い茂る。ある野球部の部室には靴が片方脱ぎ捨てられ、ホワイトボートには次の試合日程が書かれていた。でも、生活のにおいはどこにもない。この風景の不気味さはこれまでの被災地とまるで異なるものだった。さらに海岸部へ行き、私は目を疑った。倒壊した家、散乱した瓦礫、横転した車、皮肉なことに、原発事故のために、私は二年半も被災地に足を踏み入れなかったにもかかわらず、震災当時の惨状をこの目で見た。この奇妙で恐ろしい体験は私の心に深く刻みこまれたと同時に、原発のこと、原爆のこと、放射能のこと、被爆者のこと――これらが一本の線となって私の目の前に現れてきた。そして、私は〈被曝の物語〉を語るようになっていった。

 「地獄の現場へ降りて行き、人間の真実を探す」という井上ひさし氏の言葉を道しるべに、覚悟してのぞんだ新たな歩みのつもりだったが、〈被曝の物語〉を語ることは想像を超えて、つらく苦しい。それは、あまたの被爆者の壮絶な記憶をつぶさに辿っていかなければならないからだ。

 いくつかの公演を終え、また広島を訪ねる。原爆ドームを見上げながら、果たして共徳丸は取り壊されてよかったのだろうかという思いがふと頭をよぎった。負の遺産を残すことの重さをあらためて感じ始めていた。〈被曝の物語〉をあえて声に出して語ろうとしている自分の行為は、負の遺産を残そうとする行為に通じているようにも思えたのだ。

 『ひろしまのピカ』は多くの子どもたちに読み継がれているが、原爆の悲惨さを描いた強烈なインパクトのある絵本でもある。それゆえ、絵本の読み聞かせが敬遠されることもあるだろう。そんなとき、この朗読CDを活用してもらえたらと思う。お子さんと一緒に絵本をひらいて、その子のまなざしを見守る。もし、こわがるようなことがあったら、そのときはそっと寄り添って手を握ってあげてもいい。

 

 〈被曝の物語〉は、負の遺産に向き合う勇気をぬくもりにかえて、私たちの心に宿ってくれる。そしてそれは時を経ても色褪せない。語るたびに生き生きとたちあがってくる〈被曝の物語〉にいつしか私は希望を見出している。これが物語のもつ力なのだとあらためて思う。

 七〇年の節目のときも、その先も、向かう道は決して平坦ではないけれど一歩ずつ、魂の灯る〈被曝の物語〉を語り継いでゆきたい。

​《月刊書評誌「子どもの本棚」2015年8月号》

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